その親鸞聖人の教えを学んでいる親鸞会に入っている友人から聞いた話を元に書いています。
老いの苦しみは、孤独な苦しみでもあります。
人間一人ぼっちだということを痛切に感じてしまうのです。
実際、一日だれとも話しをしなかった、といわれる方もあります。
話しをして分かってもらえない孤独も辛いですし、話しすら出来ないのも勿論つらいですね。
人間は本来、孤独な存在だといわれます。
だからこそ、お互い助け合って生きていかないといけないのですね。
よく言われる話ですが、「人」という字はお互い支えあって存在しているものです。
一人では生きていけない。
だからこそ、人を大切にすることが大事なのです。
人を大切にすることによって、また自分も大切にされるのです。
仏教で教える四苦八苦の一つに「老苦」があります。
文字通り、「老いる」という苦しみです。
人はいつまでも若くはおれません。
いずれ年をとり、老いの苦しみを味わうことになります。
老人をバカにしていると、必ずその報いに泣き、老いの苦しみに泣くことでしょう。
逆に若いときからお年寄りを大切にしておれば、その姿を見ている子どもたちから、
大切にされることでしょう。
後悔、先に立たずとはよくいったもの。
現在のタネまきが未来を決定させます。
伝統的な仏教を忠実に話しする親鸞会の会員の友人から聞いた話を元に書いています。
お釈迦様が、仏の覚りを開かれる前、まだシッタルタ太子というお名前のころ、
人は「老いる」ということを知り、大変ショックを受けられました。
若くて健康であることが当然のように思っていたのに、そうではないことに気づかされたからです。
人は皆、年老い病にかかる、ならば、一時の若さや健康に、一体どんな意味があるのだろうか?
かならず奪われるものを渡されても、喜ぶことができないように
やがて失う若さや健康を心から喜ぶことができなかったのです。
のちに、シッタルタ太子は、老いと病と死を越えた、さとりを求めていかれます。
親鸞会で仏教の話を聞いている友人から聞いた話を元に書いています。
釈迦様が覚りを開かれる前、シッタルタ太子というお名前のころのことです。
シッタルタ太子は、ある日、東の門から城の外に出られ、初めて老人を見ました。(太子の周りは、若い人ばかりが世話をしていたのです)
そこで太子は、「老い」の苦しみを知られます。
いつまでも若くはいられない。
これは、いつの時代でもどこの国でも変わらない問題です。
釈迦様が覚りを開かれる前のお話。
シッタルタ太子というお名前のころのことです。
四門出遊という有名な話があるのですが、親鸞会という仏教の話を聞く集まりに言っている友人から聞いた話を元に書いていきたいと思います。
シッタルタ太子は、ある日、東の門から城の外に出られました。
やがて、顔には深いしわが刻まれ、腰がまがり、杖をつきながら歩いている人を見かけました。
あのものはどうしたのかとたずねると「老いたのでございます」という答えが返ってきました。
「老いた?老いとは何か?」と太子は尋ねました。
太子の周りは、若い人ばかりが世話をしていたのです。
(つづく)
老後についてお釈迦様が悩まれたと聞くと、「え!?」って思われますかね。
これはお釈迦様が覚りを開かれる前のお話。
シッタルタ太子というお名前のころのことです。
四門出遊という有名な話があるのですが、親鸞会という仏教の話を聞く集まりに言っている友人から聞いた話を元に書いていきたいと思います。
「葬式は必要か?」というような、最近話題になっているテーマについての
新聞記事に、葬儀に関するジャーナリストが書いていた一言が引っかかりました。
「高齢になってからの葬式には、参列者はそう多くないから、葬式の意味は
それほど大きくない(だから、葬式はなくてもよい)」
だいたいそんなような意味のことでした。
そうか、高齢になると、人間関係もどんどん、どんどん希薄になるんだなぁ、
と思って、高齢者の寂しさの一端をかいま見た気がしました。
また、これも最近、話題になっていますが、行方不明の超高齢者です。
100歳を超えて、周囲に祝福される幸せな超高齢者もおられる反面、
今一体どこにいるのか、家族でさえ「知らない」と他人事のように言う
そんな方々も、大変多いということです。
退職して、社会との接点を失い、肉体や頭の機能が衰え、
気力まで減退したら、あとは、どんどん自分だけの世界に
入っていくしかないでしょう。
そうなると、いわゆる「引きこもり」状態ですね。
子供のうちは、まだ親がかまってくれるから、救いはあるものの、
高齢者の場合は、やっかい者扱いになるのがオチで、
どうも救いがありません。
2600年前、インドでお釈迦さまが、老いの問題に大変驚かれて、
出家する原因の一つになったと言われるのも、頷けます。
親鸞会で仏教の話を聞いている友人が言うには、親鸞聖人は、
90歳で亡くなられましたが、晩年まで精力的な執筆活動をされた
とのことで、生涯、布教に全生命を投入されたと聞きます。
私たち凡人とは比較になりませんが、それでも、仏教の教えの中に
何か、人生のヒントが隠されているような気がしてきました。
よく年を取ると頑固になると言われますが、ある科学者は、
年を取ったから頑固になるのではないと反論しています。
「高齢になって頑固になる人は、若いころから頑固だった人だ」
と言うのです。うーん、と深く頷かされるところがあります。
確かに老化によって前頭葉の働きが鈍くなり、
感情が抑えられなくなる、ということはあるでしょう。
しかし、それは現象の表面だけを見ていると言えます。
なぜかといえば、老人の全てが頑固になる訳ではないからです。
親鸞会で仏教の話を聞いている友人が、よく、
「因果の道理」ということを話してくれます。
話せば長くなりますが、世の中のことは全て原因と結果が
密接に関係していて、原因なしに結果が現れることはない
すべての結果には原因があるということです。
そして、未来の結果の原因は、みな現在にあるといいます。
年を取ってから現れるいろんな結果の原因の多くは、
若いころにあったということです。
分かりやすいのが、肉体の病気でしょう。糖尿病とか、
ガンとかの成人病も、今では生活習慣病と言われます。
長年の生活習慣が原因だからです。
食生活などの目に見える習慣もそうですが、目に見えない、
心の中で行われる、思考の習慣も、大事にしていきたいものです。
若いうちに作った原因のすべてが老後に一度に出てくるとしたら、
こんな恐ろしいことはないからです。
昨日のNHKの「クローズアップ現代」は、
社会的弱者に救いの手をさしのべるNPOを特集していました。
病気で外出がままならない子供への支援とか、
行政では対応できないサービスを提供しているNPOが
たくさんあることを知りました。
今話題になっている「高校の無償化」とか、「子供手当」にしても、
国民一律の対応では、いろんな欠陥が指摘されています。
(もともと授業料を免除されていた、本当に困っている人には
何の恩恵ももたらさないとか)
結局のところ、行政というのは、かゆいところに手が届く
という対応は、もともと不得手なのです。
年金とか、介護施設の問題は、国の制度の問題であり、
また箱モノであり、一般の国民がどうこうできる問題ではありません。
そんなものがたとえ充実していなくても、いや、
充実しているところは少数派でしょう。
「社会が悪い」、「◎◎◎が悪い」と制度の不備捜しをする前に、
私たちのもっと身近なところに、老後を明るく楽しく過ごすヒントが
隠されていないか、もっと考えてみなければと思います。
住友信託銀行が、老後の生活資金を試算しています。
http://senior.sumitomotrust.co.jp/kikou/secondlife/lifeplan/lp04.html
これを見ると、老後に新たに支払いが必要となるお金もあるということで、驚きました。たとえば、健康保険料です。在職中は、半分は会社負担ですが、退職とともに、全額自己負担になります。
そんなことを含めて試算すると、だいたい月21万円というところのようです。
こういう試算は、平均的な人を想定していますが、もちろん、人生いろいろですから、必要な額も幅が出てくるでしょう。働いている今でさえ、そんなにもらってないという人もありますから。
よく老後の人生設計が大事といいます。生命保険の営業の人は、人生設計のフローチャートのようなものを見せてくれます。何歳で結婚して、子供は何人、子供が卒業するころにはあれして、これして、と。老後の資金も今から計算しておかないと、と警鐘を鳴らします。
20代のころ、私もそのように人生設計を考えてみたこともありましたが、実際は、所期の設計とは全く違った人生を歩んでいます。人生には不測の事態が多すぎます。
そこで、不測の事態に備えて、入院費用はこれだけ、リフォーム費用はこれだけ、◎◎◎のためにはこれだけとまた、資金需要が増えていきます。そして最後は自分の葬儀費用でしょうか。最大の不測の事態ですね。
いつ仕事を止めるか、までは計画も立てられますか、いつまでこの世にいるかは、全く計画が立ちません。未来を考えるのは、難しいものです。
友人が親鸞会 (http://www.shinrankai.net/)で仏教の話を聞いていますが、何もかも不確実なこの世界で、老後よりも確実に訪れるのが「後生」だと彼は言います。確かに、若くして死んでしまえば、老後はないわけですが、後生は確実に訪れます。
その設計は、どうするのか。21世紀はそういうことが、もっと問題になってくるのではないかという気がします。